島津ゆきおプロフィール

略歴

徳山市立櫛浜小学校から徳山市立太華中学校に進む
1969年 東京大学法学部卒業
1969年 日本電信電話公社入社
1973年 ロンドン大学大学院在学(2年間の在外研修員)
NTT広報担当部長、人事担当部長、下関支店長、千代田支店長を経て退職。
「アンパンマン」で有名なキョクイチ社長にヘッドハンティングされる。
1998年 ヤハギ(旧矢作製鉄、東証1部)副会長。
1999年 インターネット総合研究所常勤監査役に就任。
2003年 山口県周南市長選挙で落選。
2007年 山口県周南市長選挙で当選。
2011年4月 山口県周南市長選挙で落選。
2012年5月 山口県周南市議会議員選挙でトップ当選。
2015年4月 山口県周南市長選挙で落選。
2016年5月 山口県周南市議会議員選挙でトップ当選

哲学

  1. 松陰先生「志を立てて、以て万事の源となす」→「大志」
  2. 島津の「大志」→「周南再生」の志
  3. 「振れず、動じず、怯まず」→「再生」の成就

好きな言葉

  1. 陽好高貴
  2. 波瀾万丈
  3. 七転び八起き

好きな色

赤とピンク ※赤は島津カラーと呼ばれています→矜持と勇気

尊敬する人物

  1. 吉田松陰先生
  2. 児玉源太郎閣下

趣味

骨董品収集(価値は不明、ガラクタもあるかも)

家族

妻 子供2人 猫3匹

 

島津ゆきお物語〜周南との関わり

地元からの要請

幼少時代を櫛ケ浜の奈切で過ごし、櫛ケ浜小学校、太華中学校までを旧徳山市で過ごした島津幸男にとって周南市はまぎれもない「故郷」です。
再び周南市との関わりが始まったのが、今から約13年前です。当時京都大学大学院で教授をしていた森広芳照氏から「徳山を1回ぶっ壊してくれないか?」と言われたのがきっかけです。
森広氏も周南市(旧徳山市の森広薬局の息子さん)出身で、徳山高校卒業後、東京工業大学・大学院を卒業して電電公社に入社、島津がNTTの人事部長(事務系)をしていた時、森広氏が研究系の人事部長(NTT研究所のナンバー2)。まさに徳山出身者がNTTの両人事部長で机を並べていた時代があり、一歳年下の島津は森広氏と意気投合し兄のように慕っていたのです。その後、森広氏はNTTから京都大学大学院に教授として移籍して、その後は情報通信分野で多大な功績を残されました。
実は最初に故郷徳山の市長に、と招聘されて声がかかったのがこの森広芳照氏で、森広教授の徳山高校時代の同級生であった宇都宮医院の宇都宮陽一氏(後の島津幸男の後援会長)をはじめとする地元の有志から森広教授に「どうしても市長をやってくれ、地元の人間では徳山の古い体質は壊せない」と声がかかったのですが、森広教授は「徳山の街を立て直すのだったら、絶対に私よりも適任者が居る!」と二つ返事で島津幸男を故郷徳山に送り込むことを決めたのです。
この時島津はNTTを辞めて会社を起こしており、後述する波瀾万丈の真っただ中、やっと落ち着いた頃だったので市長選に出るために故郷に帰ることを断り続けていました。
それでも森広教授の「1回でいいからやってくれないか!とにかく徳山を立て直してくれ!他には候補が居ないそうだから安心しろ」という執拗な説得に折れて立候補を決意。結局他に4人も市長選に立候補していたので島津としては、「なんだ話が違うじゃないか?」と思ったと言う。それでも最初の市長選を戦ううちに、この街の問題点が見えて来た。それ以来、『すべては市民のために』という志を持って周南を建て直すために全力を懸けることを決意したのです。
これが島津幸男が周南の市長選に最初に出馬した時の背景ですが、この時背中を強烈に押してくれた森広教授は、2006年9月に急逝されるのです。享年61歳の若さでした。島津市長誕生を見ずして亡くなった森広教授の無念さは想像に難くなく、奥様からも「森広の無念さを晴らして下さい」と頼まれたことが再び市長選に出馬するエネルギーとなったのです。

 

波瀾万丈の社長時代

さて島津幸男が波瀾万丈の人生を送る50代の話です。
島津は最初から50歳でNTTは辞めて次の仕事をしようという人生設計を考えていました。NTT広報担当部長、人事担当部長、下関支店長、千代田支店長を歴任し、NTTの民営化の際にも中心となって33万人の職員を動かす経験をした島津には、NTTの土俵が狭く感じてきました。
そして通産省の事務次官から紹介を受けて、当時セガの子会社だった株式会社キョクイチの社長へとヘッドハンティングされました。キョクイチという会社(後にトムス・エンタテインメントに商号を変更)は、アンパンマンで有名なアニメ制作やアミューズメント施設の企画・運営を主な事業とする会社です。
このキョクイチの社長時代に鉄鋼メーカーで一部上場企業であった矢作製鉄株式会社(後の株式会社ヤハギ)をM&Aで買収、副会長で入ったのですが、この時に仕手株勢力によって島津は標的にされたのです。「風説の流布」によって巨大な力に株価を操作され手形を乱発したとして商法特別背任容疑で書類送検されました。これが有名な島津幸男の書類送検事件です。当時の新聞記事に大きく取り上げられ最近まで周南でもこの記事のコピーが飛び回っておりましたね(笑)。当時この仕手株を仕掛けたグループには、みなさんもよくご存知の大物事業家もいます。
ただし、この件は2年かかって地検特捜部が徹底的に調べ上げましたが、島津の事件への関与は何も無いことが証明され、完全終結しました。
この一連の事件のことを詳しく知りたければ、徳間文庫から『勇士の墓(清水一行)』という文庫本が発売されています。実はこの企業小説のモデルは島津本人で、文中の固有名称や一部内容は脚色してありますが、ほぼ事件の内容はノンフィクションです。
ついでにもう一冊。NTT時代の島津をモデルにした企業小説も光文社文庫から『社長の品格(清水一行)』というタイトルで発売されています。こちらも役名や固有名詞、内容はアレンジされていますが、NTTが民営化される当時の人事部長の島津がモデルとなっています。
まさに、島津幸男の人生は波瀾万丈、二冊も小説になるくらい激しい人生の浮き沈みも経験しているので、今までの経験に比べたら現在周南でいろいろ根も葉もない噂をされても一向に動じないのです。
こうした波瀾万丈の50代の後半にはMVNO(エムブイエヌオー)という名前の会社を東京で起こしました。今ではMVNO(Mobile Virtual Network Operator)は、仮想移動体通信事業者の固有名称になっているほど一般的になりましたが、当時はレンタル携帯電話の事業モデルは無く、主に中国に携帯電話を一気に広める事業で急成長させました。
これがNTT退職から周南市長選に出馬する直前までの島津幸男の経緯です。